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  • 建物被害、市内の九割
    県産業奨励館、無惨な姿

    (六日夜)
広島県商工経済会の屋上から見た広島県産業奨励館。 (撮影 米軍)
 市内中心部の建造物のほとんどは、爆風により一瞬のうちに倒壊粉砕した。さらに続く火災の発生で猛火に包まれた。消火活動もままならないまま、同日午後四時ごろまでに、焼ける物を焼き尽くし、自然鎮火していった。市内は様相が一変し、多くの人が暮らしていた面影は無く、一面の焼け野原と化した。

 木造家屋は爆心直下から半径一キロメートル以内は瞬間的に、二キロ以内でも大部分が全壊した。市内の建物七万六千戸余りのうち、九〇%以上が半壊半焼以上の被害を受けたと見られている。

 爆心から九百メートルで明治時代に建造された木造の広島県庁(水主町=加古町)は、爆発と同時に全壊、出勤していたと見られる約七百人のうち多くが建物の下敷きになり、連絡がつかない人も含め五百人以上が行方不明になっている。

 またコンクリート建築も上部の屋根が破壊され、鉄製の窓枠や扉が吹き飛ばされた。爆心付近では外観は残ったものの屋内に火が入り、全焼した。

被爆前の広島県産業奨励館。チェコ人ヤン・レツルの設計で1915(大正4)年4月に完成、その年の8月5日に開館して以来、商工業の拠点だった。
(米国返還写真)
 爆心直下の県産業奨励館(猿楽町=大手町)は、大正四年(一九一五年)に物産陳列館として開館した。鉄骨入リレンガと石造りでチェコスロバキアのヤン・レツルが設計・監督した時代の先端を行くモダンな洋風建築だった。それが一瞬のうちに全壊、特徴あるドーム部分の鉄骨と中心部のレンガ造りの一部を残すのみとなった。

 軍事施設は第二総軍司令部をはじめ、中国軍管区、広島連隊区司令部、憲兵隊などいずれも壊滅的な被害となった。

 広島瓦斯、旭兵器など主要な工場も全壊・全焼。六千を超える工場が被害を受け、り災工員は六万人近くに上った。中国新聞社、広島中央放送局、帝国銀行広島支店、劇揚映画館十二館など主要な民間会社もことごとく焼け落ちた。

 教育施設も広島文理大をはじめ、広島高等師範学校、広島女学院専門部などが全壊、中等学校二十九校、国民学校二十八校が半焼以上の被害を受けた。
 
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 2005年8月6日発行 中国新聞労働組合 広島市中区土橋町7番1号 郵便番号730-8677
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