ヒロシマ新聞トップ > 生活・くらし
昭和25年頃の本通商店街
  • 広島1945年頃の
    生活・くらし

    ( 昭和十七年〜昭和二十五年 )
●広島市の人口   34万3,034人(軍人を除く)
1944年2月現在
●広島市の人口   13万6,518人(33,272世帯)
1945年11月現在
●戦災者の1ヶ月の生活費   4人家族で 600円〜900円
●米1升  
およそ40円
主食の配給。1日1人2合1勺
(297グラム)。1食茶碗一杯・芋・大豆・大豆かすなどを含む
●電燈料   1燈(20〜30W)70〜85銭
●ガス代   1ヶ月 3円75銭(25m3)
●電話加入  
9600台の内、8,600台が焼失
●新聞代  
2円70銭(1ヶ月)1部5銭
●清酒の配給再開  
1945年9月
酒の立ち飲み 1946年1月
1合(180cc)2円
●牛乳   特別牛乳 1円
●映画   2円(1944年)
●セーラー万年筆   70円
●三菱製図用鉛筆   3円
●大学ノート   50円
●子供ズック靴   90円
●軍用毛布   どんどん売れた 1枚100円200円
●国鉄   山陽本線 8月8日・芸備線9日に開通
●市電   3銭 8月9日に市内電車一部運転開始 市内電車123車両のうち15両残った(完全稼動車両3両)
●バス   20銭(1946年2月)
●理髪料金   1円(東京、3円50銭)
●銭湯   広島の銭湯は被爆前、137件あった。
大人18銭(東京・大人20銭)
●蒸かし芋   2切れ 1円
●本川饅頭   1942年(昭和17年) 1個5銭
饅頭、水羊羹を買うのに本川までの行列が出来た。昭和20年頃は原材料を何人もが持ち寄り何とか饅頭らしき物を作った。
●広島名物虎屋饅頭   うどん粉と芋飴の代用饅頭 1個50銭
●医療   広島市内には医師(298名)歯科医師(152名)薬剤師(140名)看護婦(1,780名)市周辺部の死傷を免れた医師28名、歯科医師20名らは被爆直後から当局の指揮や命令もないまま負傷者の応急処置を行なった。1947年(昭和22年)初診料10円以上 皮下注射10円以上 入院料20円以上
●住宅   住宅は住宅営団が一手に引受、住宅1セット3500円で売り出し。当時の3500円は大金であまり売れず、市は純市費で最小限の応急市営バラックたて十軒長屋二百戸を建設。完成は1946年9月。
●学校   9月 国民学校授業再開 本川国民学校 爆心地に一番近い当校は1946年(昭和21年2月)から先生4に人と生徒約45人で再開した。
●東洋工業   三輪トラック生産
1947年(昭和22年)2,720台、1948年には5,200台となり1937年(昭和12年)3,097台をぬいた。
●その他   ・第1回宝くじ発売
(1等10万円と純綿キャラコ2反)
・戦災学校復興のため1948年(昭和23年)
 広島県復興宝くじ発行 1枚20円 
 特等賞金 20万円 特賞 高級桐タンス
●1945年以降のくらし
      1945年1月
      1949年8月
      1950年1月
      1956年9月
 
広島原爆傷害調査委員会(ABCC)設置
広島平和記念都市建設法公布施行
プロ野球、広島カープ球団設立
広島原爆病院は日赤病院構内に年賀ハガキの配当金6,500万円を投じオープン。
 
生活・くらし
くらし記事
帰らざる水都の夏天神町かいわい
核開発競争・ヒバクシャ
被爆死傷者
在外被爆者と救援の現状
軍都広島
中國新聞社の被害
インタビュー 川本隆史 教授
原爆ドーム
在外被爆者
被爆死者数
 
 本ページ内に掲載の記事・写真などの一切の無断転載を禁じます。"ヒロシマ新聞"における情報の著作権は中国新聞労働組合または情報提供者に帰属します。
 2005年8月6日発行 中国新聞労働組合 広島市中区土橋町7番1号 郵便番号730-8677
 写真提供 : 広島平和記念資料館/広島観光コンベンションビューロー/広島市公文書館  協力 : 中国新聞社  制作協力 : SOLALA co,.ltd.
 (C)Copyright 2005 Labour union of the Chugoku shinbun. No reproduction or republication without written permission.
 7-1 Dohashicho Nakaku Hiroshima Japan