ヒロシマ新聞トップ > 終わらぬ被害 止まらぬ核開発競争[記事]
  • 1945年末までに14万人か
    確定難しい犠牲者数

●被爆者の数

 「ヒロシマ新聞」にある「五万人以上が死亡」の記述は、あくまで被爆当日の推計、という前提に立っている。熱線、爆風、建造物の火災と倒壊に加え、深刻な放射線障害をもたらした原子爆弾は、その後も多くの人命を奪い続けた。1976年、広島・長崎両市長が国連事務総長に提出した核廃絶に向けた要請文書は、45年12月末までに広島で約14万人(誤差±1万人)が死亡したとしている。

 被爆当時の広島市の人口は、71年に市が発行した「広島原爆戦災誌」によると、約37万人(昼間の推計)。46年8月、市が町内会を通じた調査ではじき出した被爆時の人口31万2277人に、軍関係者約4万人、近郊の町村からの出勤者ら約2万人を加えた数字だ。

 ただし、当時の昼間人口は著しく増大し、40万人前後はいたという見方もある。人口そのものが不明確なので、被爆者の実数もまた正確な把握が難しく、推定数しか挙げることができない。

 平和記念公園(広島市中区)の原爆慰霊碑石室に収められている原爆死没者名簿には、亡くなった被爆者の名前が遺族の申告などに基づいて毎年書き加えられ、2005年8月6日現在、24万2437人の名が記されている。


●原爆症

 原爆は放射線による傷害という、通常兵器とは異質の残虐性を持つ。爆発に伴う初期放射線は人体に致命的なダメージを与えた。放射能を含んだ「黒い雨」は遠方にも被害を広げ、救援などで入市した人々を残留放射線が襲った。

 高熱や下痢、全身の脱力感、吐血、下血、多量の脱毛、歯茎や全身の皮下出血などが続き、衰弱して死に至る―。それほどのけがややけどもなく、被爆直後は元気に見えた人にも現れた放射線障害は、「原爆症」と恐れられた。

 急性症状は1945年末には一応終息するが、以降もさまざまな後障害が認められる。白血病やいくつかの悪性腫瘍は、被爆者に発生する率が高いことが知られている。胎内被爆者には小頭症を含む発育障害の多発傾向が報告されている。

 原爆症への不安は、他者からの差別的な視線と相まって、長く被爆者を苦しめた。「生き地獄」の体験で負った心の傷も計り知れない。原爆はまた、家族や地域社会を破壊し、「原爆孤児」や「原爆孤老」を生んだ。


●被爆者対策

 敗戦後の米軍占領下では、原爆に関する情報が厳しく制限された。公的な被爆者対策は、講和条約発効翌年の53年、広島県・市医師会が原爆障害者治療対策協議会をつくって救済活動に乗り出すまで、ほとんど実施されなかった。

 57年、原爆医療法の施行で国の医療費負担が始まる。68年には被爆者特別措置法による手当支給が加わり、医療法と合わせた「原爆二法」が社会保障の両輪となった。しかし、国の戦争責任を認めた上での補償ではないことに、批判も根強かった。

 94年、原爆二法を一本化した被爆者援護法が成立し、「国家補償」ではないものの、総合的な援護対策を講じる「国の責任」を明記した。しかし、在外被爆者対策の遅れなど課題は残されている。
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 2005年8月6日発行 中国新聞労働組合 広島市中区土橋町7番1号 郵便番号730-8677
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