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  • 米国、極秘裏に開発
    七万人・二十億ドルを投入
    日本投下、昨秋英と合意

 米国が六日、広島市に投下した原爆は、米国が極秘に開発したことが、米軍資料から明らかになった。科学者ら約七万人、二十億ドルを投入。当初はナチス・ドイツが先に原爆を開発する恐れから開発を始めていた。

 資料によると、「マンハッタン計画」と呼ばれた計画の立案は一九三九年八月、一般相対性理論で有名な物理学者アルパート・アインシュタインが、ルーズベルト大統領に送った手紙が発端だった。前年に発見されたウランの原子核分裂による新型爆弾製造の可能性を示唆。すでにドイツが関心を寄せていることを示し、大統領に製造研究への着手を促した。

 これを受け、大統領は「ナチスに吹き飛ばされないよう手当てを」と、同年十月にウラン諮問委員会を設置。開戦より半年前の四一年六月には大統領直轄の科学研究開発局を置き、これまで科学研究の対象だった原子核研究を、原子爆弾開発へ変更し、その使用に向けて突き進んでいくことになった。

 陸軍幹部も計画に加わり、翌四二年には、同開発局がニューヨーク市内に仮事務所(マンハッタン管区)を設け、原爆製造に本格着手。設計・製造責任者に物理学者ロバート・オッペンハイマー博士を据え、研究施設をニューメキシコ州ロスアラモスに構えた。施設、人的措置とも軍最高の予算枠を割り当てられ、一刻も早い投下に向けての研究が始まった。

 計画は極秘裏に進められた。検閲局が厳格な報道管制を敷き、研究所用地取得などのばく大な資金調達に議会から疑惑の声が上がっても、軍が一部議員に根回しして隠し通した。

 ロスアラモス研究所内では科学者間の情報交換は一切禁止。黙々と進められた研究は四五年七月十六日に爆発実験にこぎ着けた。研究所に近いアラモゴードで午前五時二十九分四十五秒に炸裂した爆弾の威力は科学者の予想をはるかに越えていた。三百キロ`離れた地点でも、せん光を目撃した人もいるが、軍部は「弾薬庫が爆発。人命に異常なし」と発表しただけだった。

 原爆の開発が進むにつれ、投下目標の選定が問題となった。諜報活動の結果、ドイツの原爆開発は進んでいないことが判明。戦後の米ソ関係もにらみ「ドイツ人より原爆から知識を得る公算が小さい」日本への投下に、米首脳は傾いていく。四四年九月、ルーズベルト大統領は開発協力関係にあった英チャーチル首相と英ハイドパークで「日本に使用」との点で一致。事実上、日本への投下が決定した。 日本国内での目標選定には @抗戦意思を挫折させる A軍事的性格を持つ B事前の戦災被害が少ない C原爆の威力を限定できる場所− が適当とされた。四五年四月二十七日の第一回目標選定委員会では全国で東京湾など十七カ所、中国地方では広島、呉、下関、山口の四市が候補に挙がっていた。

 最初の使用を劇的なものにするとの観点から、広島は「広域に渡って破壊できる規模を持ち、付近に丘陵地があって爆風の集束作用が得られる」と、京都とともに有力候補となった。

 同委員会内で討議を重ねた結果、目標は広島、小倉、京都、新潟に絞られた。だが、価値ある文化財が多い京都への投下は、スチムソン米陸軍長官が戦後の日米関係への配慮から反対。新潟も「都市規模が小さく、太平洋の基地から遠すぎる」と、候補から外された。二都市が除かれた後、長崎が追加された。候補に挙げられた都市は、いずれもこれまで大陸との交通の重要な拠点であった。
 
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