ヒロシマ新聞トップ > ヒロシマ新聞・編集後記
  • 核兵器廃絶を目指して
       (1995年ヒロシマ新聞からのメッセージ)
 原爆投下の翌日、広島に新聞は配達されなかった。当時は「一県一紙」。県内で唯一の新聞だった中国新聞社が被災、発行不能となったためである。輪転機など物的な被害も大きかったが人的被害も甚大だった。中国新聞社は社員の三分の一、100人以上を失い、他の新聞、通信社で働いていた13人も犠牲になった。

●伝えたい事実の重み
 もしも被爆直後、きのこ雲の下で起こった惨状をありのままに国内に、そして世界に報道できていたら、世界はどうなっていただろう。世界の世論、そして国家指導者たちは、堂々と原爆投下を正当化できただろうか。ナガサキの悲劇は起こらずにすんだのではないか。歴史に「もしも」が禁物であることは百も承知。しかし、そんな思いから、私たちは被爆直後の「事実」を、新聞の形で再現したいと考えた。
 1995年初めの米スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展中止が物語るように、日米間の意識のみぞは50年後もまだ深い。そのギャップの背景には、被爆の実相がきちんと伝えられてこなかったことも影響しているのではないか。戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)のプレスコードによる言論統制で、原爆報道が大きな制約を受けた歴史を私たちは忘れるわけにはいかない。

●今日の視点で
 歴史や社会背景に忠実になれば、紙面は「被害にめげず聖戦完遂」のトーンになってしまう。現に被爆三日後の九日付中国新聞(朝日、毎日新聞などが代行印刷)は「新型爆弾攻撃に強籾な掩体と厚着」で対抗し「いまに我らの復讐を」と呼びかけている。
 私たちは、あくまで現在の新聞人の視点で当時を見つめ直した。言葉遣いや言い回しは今日の形。軍の検閲もなく、国内外での出来事も即座に″配信″されたと仮定した。
 ただ、写真は後日撮影のものも利用、地名などは現在の名も付した。放射線の影響も、被爆当日にはほとんど広島で認識されていなかった事実を考慮、詳しく触れなかった。厳密な当時の状況に則していない点があることをお許し願いたい。

●学習重ね紙面づ<り
 紙面づくりは学習の場でもあった。スタッフは編集だけでなく、営業や製作、印刷などの職揚の組合員も参加した。全員が戦争を知らない世代。戦争体験者らを招いた学習会を開いた。各種の文献、資料集めと調査、被爆者への聞き取りなどを通じて「原爆」に向きあった。
 仕事の合間を縫った作業だった。休みなどを利用し、すべての職揚の仲間がかかわった。出来映えは決して満足できるものではない。準備、力不足、勉強不足…。課題が多々あることに気づいた。今後も学習を続け、原点に迫りたい。

●不戦の誓い新たに
 中国新聞労働組合は10年前の1985年8月、被爆40年事業として「不戦の碑」を建立した。原爆で亡くなった新聞労働者を追悼し、二度と戦争のためにペンを取らず、輪転機を回さない誓いを込めた碑でおる。
 「過去を振り返ることは未来に責任をもつことです」とローマ法王は広島でアピールした。私たちは50年前の「あの日」を見つめ直したい。それを考えることが、未来に責任を持つことだと考える。同時に、アジアの侵略戦争に至った経緯や結果など歴史検証も課題である。
 最後になったが、取材に快く応じていただいた被爆者の皆さんをはじめ関係者にお礼を申し上げます。編集・制作機器の利用では中国新聞社の便宜を得、印刷は関連の中国印刷社の協力をいただいたことに感謝します。

1995年8月6日
 中国新聞労働組合「幻の原爆紙面」製作委員会(委員長=伊達弘幸・中国新聞労組執行委員長)
 
生活・くらし
くらし記事
帰らざる水都の夏 天神町かいわい
核開発競争・ヒバクシャ
被爆死傷者
在外被爆者と救援の現状
軍都広島
中國新聞社の被害
インタビュー 川本隆史 教授
原爆ドーム
在外被爆者
被爆死者数
 
 本ページ内に掲載の記事・写真などの一切の無断転載を禁じます。"ヒロシマ新聞"における情報の著作権は中国新聞労働組合または情報提供者に帰属します。
 2005年8月6日発行 中国新聞労働組合 広島市中区土橋町7番1号 郵便番号730-8677
 写真提供 : 広島平和記念資料館/広島観光コンベンションビューロー/広島市公文書館  協力 : 中国新聞社  制作協力 : SOLALA co,.ltd.
 (C)Copyright 2005 Labour union of the Chugoku shinbun. No reproduction or republication without written permission.
 7-1 Dohashicho Nakaku Hiroshima Japan