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  • 帰らざる水都の夏
    天神町かいわい

「ナンマンエーの女性」
早朝、氷を詰めた木箱をリヤカーに乗せ、小イワシを積んでやってくる。江波や草津方面から中心部へ。「ナンマンエー」と声を掛けながら町内を回る
 見渡す限り焼け野原となった広島市は六日の朝まで、城下町の歴史を受け継いだ人情味あふれる人々が暮らす街だった。戦時下の緊張はあったが、六日午前八時十五分までは確かに老若男女、普通の人々の暮らしがあった。
 今は、戦地に行っている天神町北組の菊池繁三さん(24)は、昭和十五年ごろ、自宅付近の風景を趣味のカメラに収めていた。写真からは、川遊びに夢中の子供たちや、「ナンマンエー」(小イワシ売り)の女性、小学校の運動会など、元安川と本川に挟まれた中州の街の豊かな息づかいが伝わってくる。
 菊地さんが住んでいた天神町(中区中島町)は、元安川の右岸沿い、元安橋の少し下流から南北に細長く続く。中島本町、材木町、元柳町、木挽町などとともに映画館やカフェ、撞球、射的揚が軒を連ね、昭和初期まで市内一の繁華街だった。
「運動会」
中島小学校の運動会。家族はテントの下にムシロを敷き、わが子に声援を送った。校舎二階からも鈴なりの父母らが応援している
 三百年以上前からの城下町のたたずまいを受け継ぎ、太田川の三角州に発達してきた広島の街。そこには、上流から野菜を積んで下り、市内のコエをくんで帰る川船の人々との交流があった。川と陸との人情の交わりが街の文化を育んできた。
 フィルムに写しとられた五年ほど前の天神町一帯の元安川は豊かな水をたたえ、今さらながらに広島が「水の都」であることを思いおこさせる。
 生徒の教練指導で母校の広島二中に通っている天神町の山崎寛治さん(17)は語る。「潮が満ちればハゼやフナ釣り。ポート漕ぎの勇ましい声が響く。引き潮になれば上流から長い筏(いかだ)が流れ、干潟が現れてエビをすくい、貝を掘る。そこら一帯は子供たちのかっこうの遊び場だった」
「川は遊び場」
川底を泳ぐ魚もくっきり見える清流。市公認の水泳場もある。潮が引くと河原ベースと呼ぶ野球が始まる。対岸は大手町

 天神町には、戦争が始まってからも、「広島は爆撃されないから」と信じて他都市などから疎開してきた人もいて百三十二世帯、約三百八十人が暮らしていた。天神様の夏の祭りには夜店も並び、多くの人でにぎわった。
 中州の街は一発の爆弾で消えた。一帯は廃墟しか残っていない。街並みも人々の暮らしも、根こそぎなくなった。清らかな水をたたえ、子供たちの遊び場だった元安川には死者が浮かび、負傷者が「助けてくれ」と悲鳴を上げて流されている。(写真は菊地さん提供)
 
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 2005年8月6日発行 中国新聞労働組合 広島市中区土橋町7番1号 郵便番号730-8677
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